元号「令和」

 

◎640【【令和】導いた筑紫歌壇。万葉集の歌人梅花で交流】島田裕子、元梅光学院大教授。

【令和】は、万葉集巻五の【梅花の歌三十三首の序文】から引かれた。奈良時代の天平2年(730年)正月13日、大宰帥(だざいのそち)大伴旅人の館で催された。梅花の宴の開催の挨拶にあたる。九州を統括する大宰府と管内諸国の官人が集まった宴は、前年の長屋王の変で生じた混乱が九州に及ばないよう統治を引き締める目的だったとも考えられるが、梅の花を題に歌を詠む文学的な集いの場であった。それは旅人と山上憶良の出会いによってこの地に開かれ、今日筑紫歌壇と称される万葉歌人たちの交流を象徴するものである。旅人は名門大伴氏の族長で、南九州の「隼人の乱」を征討軍を率いて鎮めた後、64歳で太宰府長官として再び九州に赴く。待ち受けていた憶良は69歳。渡来系ともいわれ遣唐使として渡唐、東宮侍講などを経て大宰府のおひざ元、筑前国の国守となっていた。旅人の着任後ほどなく妻が旅の疲れからか病で亡くなってしまう。都から遠い鄙に取り残された旅人の悲しみの歌に対し、憶良は旅人に寄り添う挽歌を詠む。

【世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり】旅人。

【妹が見し棟の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに】憶良。

憶良の気遣いに旅人は慰められ、折りに触れて二人を中心に歌会が開かれるようになる。大宰府の官人には都より来た知識人も多く、鄙の地からの望郷の思いや土地の魅力などそれぞれ伸びやかに歌を詠んでいるさまが伝わる。

【あおによし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり】小野老。

【しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ】沙弥満誓。

【験(しるし)なき物を思はず一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし】旅人。

【生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間はたのしくあらな】旅人。

【銀も金も玉もなにせむに優れる宝子にしかめやも】憶良。

 梅花の宴は、中国の漢詩の宴に倣ったもので、序文【師老の宅にあつまりて、宴会を申ぶ。時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ……】には、中国漢文の影響が指摘される。和やかな宴会歌とあわせて、大陸に開かれた筑紫歌壇の柔軟な文化的性格がうかがえる。

 梅花の宴は、中国の漢詩の宴に倣ったもので、序文【師老の宅にあつまりて、宴会を申ぶ。時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ……】には、中国漢文の影響が指摘される。和やかな宴会歌とあわせて、大陸に開かれた筑紫歌壇の柔軟な文化的性格がうかがえる。

(708)2019(令和元年)0501「旅人と憶良と日本人(上)

日本語→「そのたおやかで、たくましいうねり」。

(710)「新元号考案者・中西進氏に聞く」「令(うるわ)しく平和築いていく」

◎【日本全史】p122【大宰府で梅花の宴】旅人、憶良らが歌で心をいやす。730年1月13日筑前【遠朝廷】といわれる大宰府で、新年の梅花の宴が催された。会場は大宰帥大伴旅人(66)の邸宅で、参加者は大宰府関係者として大弐の紀男人(きのおひと)、少弐の小野老、同粟田大夫、また造筑紫観世音寺別当の沙弥満誓(しゃみまんせい)や国司である筑前守の山上憶良(71)、豊後守大伴大夫、筑後守の葛井大成ら、総勢32人にのぼった。梅は中国産の植物で、日本では奈良や大宰府などかぎられたところでしか見られず、きわめて珍しい花である。参加者たちは鏡の前の白粉のごとく咲く白梅を見て、その感動を多数の歌に詠んだ。

【わが園に梅の花散るひさかたの/天より雪の流れ来るかも】

これは宴の主催者の大伴旅人の歌で、自邸の庭園に梅の花が散っているさまを詠んだものである。旅人は、2年ほど前に大宰帥に任じられたが、720年には征隼人持節大将軍として九州に来ており、九州赴任は2度目ということになる。しかし赴任してまもなく妻の大伴郎女を当地で亡くし、今の彼の傷心を慰めることのできるのは、歌だけなのであろう。また、旅人と並んで歌人として名高い山上憶良は、【春さればまず咲く宿の梅の花/独りみつつや春日暮さむ】と、一人で梅を見る寂しさを詠んでいる。

憶良は701年、42歳で遣唐使少録に任じられ、帰国ののちは皇太子首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)に学問を講じるなど、学識の深さはよく知られている。当代の代表的歌人である旅人、憶良を中心に、筑紫歌壇ともいうべき風雅の交わりが、大宰府に形成されているのである。

 新天皇陛下が1日、「即位後朝見の儀」で語った「おことば」は次の通り。
     ◇
 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御(み)心(こころ)を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯(しんし)に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします。

△「郷土史紀行60」

p58「遣新羅使と大伴旅人」

@「君が行く海辺の宿に霧立たば/吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ」

 天平8年(736)、遣新羅使として朝鮮半島に向けて旅立つ夫に妻が贈った短歌で、「万葉集」巻15に収録されている相聞歌(人を恋うる歌)。

A「沖つ風いたく吹きせば我妹子が/嘆きの霧に飽(あ)かましものを」 風早の浦(広島県安芸津町)に停泊した際、妻から贈られた歌を受けて詠んだもので、他国への長旅をする夫と、その身を案ずる妻の心情が、いたいほど伝わってくる。

「万葉集」は、飛鳥時代のじょ明天皇(在位629-641)から奈良時代中期の大伴家持(おおとものやかもち)(759)まで、約130年間に詠まれた長歌・短歌など、合わせて4千500首の相聞歌・晩歌・雑歌(ぞうか)を収録した日本最古の歌集。詠み人は天皇から名もない庶民まで多岐にわたり、階級に関わりなく「万(よろず)の言の葉を集めた」という意味から「万葉集」とされるとともに、「万代・万世まで伝えたい歌」との思いを、書名に託したとも考えられている。その中には中国や朝鮮、あるいは太宰府へと政府の使者や公人として、海路および陸路を行き来した古代旅人の歌も多数収められている。

726年、太宰の帥(そち)「太宰府の長官」として赴任した大伴旅人78首、736年に派遣された最後の遣新羅使の145首など、瀬戸内海を舞台にした数々の旅情歌が、1300年という長い年月にわたって、人々に感動を与え続けている。古代の瀬戸内海航路は、陸地沿いのいわゆる「地乗り」で、摂津の難波津(大坂)を出帆し、播磨の明石浦(明石)あるいは室津(兵庫県御津町)ー備中多麻浦(玉島か)あるいは備前牛窓(岡山県邑久郡)ー備後神(こう)島「福山か」あるいは鞆の浦ー安芸長井浦(三原)ー風早浦(安芸津)ー女猫(めねこ)の瀬戸(呉市川尻と上蒲刈島の間)ー長門浦(倉橋島)ー周防の麻里(まりふ)浦「岩国」ー周防大島の大畠瀬戸ー上関と祝島の間の海峡ー熊毛浦(熊毛郡)までの各港に、「風待ち・潮待ち」などで停泊しながら、豊前分間(わくま)浦(大分県中津)ー関門海峡ー太宰府まで、日々順調な航海で約30日であった。朝鮮半島の釜山へは、さらに対馬海峡の荒波を越えなければならなかった。太宰府に赴任する大伴旅人や遣新羅使の一行は、船から眺める景色に旅愁、望郷、妻恋の心をつのらせ、それを短歌・長歌に詠んで長旅の慰めとした。

B「ともし火の明石大門(おほと)に入らむ日や/漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」これは、「万葉集」第一の歌人で地方官□だった柿本人麻呂の歌で、地方に単身赴任のために難波京を出発して明石海峡にさしかかったときに、家族を思って詠んだものだろう。それから後、明石大門を新羅に向かって航行した使者たちも、同じ思いだったに違いない。

C「武庫の浦の入江の州鳥(すどり)羽ぐくもる/君を離れて恋に死ぬべし」夫が都を離れてまだ幾日もたたないが、いつ帰って来るかもしれない長旅を思うとき、生きて再び帰ってくれるかどうか、不安で胸が張り裂けそうになる。

D「朝開き漕ぎ出てくれば武庫の浦の/潮干の潟に鶴が声すも」

E「吾妹子(わがもこ)が形見に見むを印南都麻/白波高み外にかも見む」明石の浦を過ぎて船は一路西へ。姫路沖、播磨灘の島々が見えてくる。あれは「家島」だと聞いて都の我家を思い出してしまった。妻は元気でいるだろうか。

F「家島は名にこそありけれ海原を/吾が恋ひ来つる妹もあらなくに」

 相生の沖合いを過ぎ、船はいよいよ播磨の国最西の湊室津に入る。室津は、川尻(尼崎)・大輪田(兵庫)・魚住(明石)・韓(的形)とともに「摂津五泊」と呼ばれた潮待ち・風待ちの良港であった。

室津の沖に「唐荷島(からにじま)という島がある。聖武天皇(724〜749)に宮廷歌人として仕えた山部赤人が、唐荷島のそばを通過するときに詠んだ反歌は、「唐」を「辛」に置き換えて、家を遠く離れている辛い気持ちを詠んだもの。

G「玉藻刈る辛荷の島に島廻(しまみ)する/鵜にしもあれや家思はざらむ」江戸時代「室津千軒花の町」と謳われるほど栄えた港町室津には、海駅(江戸時代)の本陣や脇本陣、廻船問屋など豪商の建造物が軒を並べ、往時を偲ばせている。そんな町並みの突端、播磨灘を望む丘に建つ賀茂神社境内から真っ青な海原に浮かぶ唐荷島がよく見える。

H「牛窓の浪の潮騒(しおざい)島響(しまとよ)み/寄さえし君に逢はずかもあらむ」室津のつぎの停泊地は備前牛窓。オリーブ園から眺める「唐琴(からこと)の瀬戸」は、日本のエーゲ海といわれるほど穏やかで風光明媚。だが、いつも波静かな牛窓の海も、ひとたび東風(こち)が吹けば島がどよめくばかりの波が立ち、干満時の唐琴の瀬戸は、船を寄せつけないほどの急流となる。

I「ぬば玉の夜は明けぬらし多麻の浦に/求食(あさり)する鶴(たず)鳴き渡るなり

J「多麻の浦の沖つ白珠(しらたま)拾へれど/またぞ置きつる見る人を無み」家を出て何日目の朝だろうか。今朝は鶴が餌を求めて鳴き渡っているから、きっと船出にはもってこいの日和だろう。多麻の浦に停泊している間に、妻に見せようと思って真珠を拾ったけれど、妻がそばにいないので捨ててしまった。さあ、つぎの寄港地神島(かんのしま)を目指して出発だ。ところで、多麻の浦とは現在のどこに当たるのだろうか。玉野市、倉敷市玉島があり特定されていない。次の神島(かむしま)も笠岡か福山か、意見の分かれるところである。

K「月(つく)読みの光を清み神島(かむしま)の/磯みの浦ゆ船出すわれは」1960年代の発掘調査によって、奈良時代から平安時代にかけての鏡や金銅製金具、三彩の容器などが出土した笠岡市沖合の大飛島が、万葉歌人が詠んだ神島の可能性が高いとされている。

L「磯の上に立てるむろの木ねもころに/何か深めて思い始(そ)めけむ」

M「吾妹子(わがもこ)が見し鞆の浦の室の木は/常世にあれど見し人そなき」

N「離磯(はなれそ)に立てるむろの木うたがたも/久しき時を過ぎにけるかも」

鞆の浦の「むろの木」を詠んだ歌は、太宰の帥(そち)の任を終えて都に帰る船中における大伴旅人の亡妻晩歌(吾妹子が・・)、およびそれ以前に鞆沖を航行した船人の歌(磯の上に立てる・・)、そして遣新羅使の歌(離磯に立てる・・)の3首。「万葉集」にはさらに3首収められており、沖から見える「むろの木」が瀬戸内海を行き来する船人の目印だったことが窺える。

○O[青丹(あおに)よし奈良の都に行く人もがも/草枕旅行く船の泊(とまり)告げむに]

P[帰るさに妹(いも)に見せむにわたつみの/沖つ白玉拾(ひり)ひて行かな]難波を発って幾日過ぎただろう。妻はどうしてい るだろうか。せめて私が元気で旅していることを伝えたい。瀬戸内海の船旅もやっと半分、まだ先は長い。次の停泊地は[風早の浦]と聞く。

[風よ早く吹いてくれ。強い風に乗って順調に航海をつづけ、無事任務を終えて愛する妻や子のもとに早く帰りたい]、そんな願いを叶てくれそうな名前の港だ。

Q[わが故に妹嘆くらし風早の/浦の沖辺に霧たなびけり]穏やかな曲線を描く海岸線。どこまでも穏やかな三津湾に臨む風早の里は、船人たちの郷愁を呼び起こす。風早の浦を出発した船は、川尻(呉市)の海岸線を眺めながら、蒲刈大橋が架かる女猫(めねこ)の瀬戸を進み、その日の夕方長門の浦に入港した。

○R[石走(いわばし)る滝もとどろに鳴く蝉の/声をし聞けば都し思ほゆ]港に近い森で蝉がしきりに鳴いている。都で聞いた蝉の声と少しも変わらない。

S[恋繁(こひしげみ)慰めかねて日暮(ひぐらし)の/鳴く島陰に庵(いほり)するかも]

21[我が命を長門の島の小松原/幾代を経てか神(かむ)さびわたる]

22[磯の間ゆ激(たぎ)つ山河絶えずあらば/またもあひ見む秋かたまけて]

23[山の端(は)に月かたぶけば漁(いさり)する/海女(あま)の燈火(いさりび)沖になづさふ]長門の浦は、古来長門島と呼ばれた倉橋島の中央に位置する桂浜で、白砂青松(はくしゃせいしょう)の景勝地。奈良時代には内海交通の要衝として栄え、遣新羅使船が停泊した際、使者が多くの歌を詠んでいる。そのうち[万葉集]に収録された8首の歌碑が、桂浜にたてられている。また、この地は推古天皇の600年頃から造船が盛んになり、遣唐使船などが建造された。平成元年、全長25mの遣唐使船が復元され、[造船歴史館]展示。その他、江戸時代に建築された日本最古の和船ドック跡(元文・寛保期=1736から1743年)、中世の多賀谷氏勘請(かんじょう)の桂浜神社本殿(国重文)など、多くの史跡がある。

24[月読みの光を清み夕凪に/水手(かこ)の声呼び浦廻(うらみ)漕ぐかも]

長門の浦からは船は広島湾には寄らず、周防国麻里布の浦をめざす。

当時、厳島神社は地方の一小社にすぎず、わざわざ寄る船もなかった。が、平安時代に平清盛が厳島を信仰し、音戸瀬戸を開削してからは、広島湾を横切って厳島に寄り、麻里布の浦に向かう船もみられるようになった。

25[妹が家道(いえぢ)近くありせば見れど飽かぬ/麻里布の浦を見せましものを]錦帯橋、岩国城、吉香公園そして城下の町並みを今に伝える美しい町。江戸時代の歴史は息づいていても、古代麻里布の浦はその姿をとどめていない。遣新羅使の船は、麻里布の浦を眺めながら潮が渦巻く大畠瀬戸へと向かう。きつい潮の流れで海藻を採っている海女の姿に船人は感動の思いを隠せない。

○26[これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に/玉藻刈るとふ海人娘子ども]大畠と周防大島を大畠大橋によってまたぐ幅およそ2kmの海峡では、小さな釣り舟が錨をおろし、急な流れに懸命に耐えている。今でも潮の速いこの瀬戸は、古代瀬戸内海航路の難所のひとつだったにちがいない。海峡を無事乗り切った船は、室津半島に沿って南下、熊毛の浦に着く。熊毛の浦は室津・上関、平生町尾国、さらに光市室積の説がある。いずれにしろこの一帯の海辺に違いなく、船は室津と祝島の間を航行した。

27[家人は帰り早来(はやこ)といはい島/斎(いわ)ひ待つらむ旅行くわれを]

29「沖辺より潮満ち来らし可良(から)の浦に/求食する鶴鳴きて騒ぎぬ」可良の浦は平生町と上関の境に位置する尾国湾で、室津半島西側の波静かな入江。上関シーサイドホテル近くの道路沿いに「万葉の碑」がたつ。この後、遣新羅使の一行は佐婆沖(防府)で台風に遭遇して一晩漂流。命からがら分間(わくま)の浦(大分県中津)に着船している。

30「浦廻(うらみ)より漕ぎ来し船を風早み/沖つみ浦に宿りするかも」風で壊れた船の修理に10日余りを分間の浦で過ごした一行は、その後再び玄海灘で遭難するなど、散々な旅のはて新羅にたどり着く。だが、入国を拒まれ目的を果たせず、おまけに失意の帰路において大使阿部継麻呂らが帰らぬ人になるなど、思いもよらない結果であった。しかし、旅路において詠みつづけた歌が、当時の瀬戸内海航路の様子を今に伝えた功績を思えば、彼らの苦労は決して無駄ではなかったのである。

◎【2019NO3】【令和】ゆかりの地太宰府をめぐる。→2019年5月1日、皇太子さまが天皇に即位され、【令和】と改元されました。長い歴史の中、初めて国書(万葉集)から引用された新元号は和歌に添えられた序文の一節から採られ、福岡県太宰府市にあった大宰府を舞台としています。【令和】は日本最古の歌集【万葉集】の【梅花の歌32首】の序文から引用されました。大宰府に赴任中の大伴旅人の邸宅で天平2年(730年)正月13日に開かれた梅見の宴で和歌が詠み交わされた際の様子を説明したもので、大伴旅人が作ったとみられています。
原文は【初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香】。(初春の令月にして、気淑く、風和ぎ、梅は鏡前の粉を開き、蘭は珮後の香を薫らす)と読み、天気も穏やかで優しい風の中に梅が咲き誇る光景が浮かび上がります。

【令月】は【万事をなすのによい月】というほどの意味。【令】は元々は神様のお告げを指し、クールで優れていることを表します。

 

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